エッセイ

神さまにはプランがある~続編-23

23. 家族のこと


前回の高校時代の想い出で、なぜ家出に至ったかについて、その理由があいまいにしか説明されていない。今、考えると、そこには家族のことが大きく影響していたように思う。
家族のこととなると、どのように書こうか、筆が進まない。悶々としていたが、とりあえず、書き出してみれば、話は進んでいくかもしれない。

父と母は、私が幼いころからあまり親密な関係とは思えなかった。何せ、父は松下幸之助氏の直属ということで、仕事に没頭していた。父の晩年の言葉で「俺は好きなことしかやってこなかった」と言っていたのが、印象に残っている。心底から仕事を愛していたのだろう。父から聞いた話では以下のような仕事をしていた。いずれも私が幼少のころに手がけていたはずである。
・東京タワーのてっぺんに命綱一本で登って、無線アンテナを設置した。
・黒部ダムに無線回線を設置した。毎日が命がけの山登りだった。

・信号システムの構築のため、信号機の開発をした。

・タクシー無線の開発のため、広範囲にわたってのシステムを構築した。

・携帯電話が日本電信電話公社(今のNTT)にしか許されていなかったため、一般通信会社もその権利を獲得するために飛び回った
など、面白い話をたくさん聞いた。

それは、もう家庭なんか振り返っている時間もないほどだっただろうと思う。母はひとりで子どもたちの面倒を見て、家を守る専業主婦だった。が幼稚園のころから、70代になるまで、ずっと習字を続け、お習字教室も開いていた。ほとんど家からでることもない母だったが、ご近所とのつきあいや、お習字の関係者とのつきあいは、人並みにこなしていた。

母はおおらかな性格ではあったが、父が接待やなにやらで毎日夜遅くまで帰宅しない毎日で、不満や負担を感じていたようだった。まだ私が小学校にも満たないある日、母は盲腸で救急車を呼ぶことになったが、父には連絡がつかない。そこで、おとなりの大家さんや会社の同僚に連絡をして力になってもらったことがある。同僚からも父には苦言があったようだ。「もっと奥さんを大事にしなさい」と。

ただし、月に1回程度の日曜日などには、父はよく映画館に私たちを連れて行ってくれた。それは私にとっては大きな情操教育になっている。また、夏休みには必ず家族旅行に連れて行ってくれた。しかし兄や私がだんだんと反抗期になると、それもかなわぬようになった。

妻からもだんだんと不満が増え、行き場所のなくなった父は、理解者を外に求めるようになり、きっと出会いもあったのだろう。ある女性と付き合うようになった。大人になった今だからわかるのだが、父はまじめだったのだろう。長い期間、その女性と付き合い、家族に波紋が及んだ。

中学校のころだろうか、母から「みどり、ここのお店にお父さんがいるから、行って、家に帰るようにお父さんに言ってちょうだい」と言って、場所を教えられた。その様子がふつうではなかったので、言われるままにその場所に行った。そこはいわゆるバーだった。もっと隠微な場所かと想像したが、今思えば、ジュークボックスのあるカウンターバーで、照明はたしかに暗めだったが、ホステスさんがいるという感じの場所ではなかった。当時の私は、喫茶店さえひとりで行ったことがなかった。緊張して重い木のドアを明けると、父はカウンターに座っていた。制服の私が入ってきたので、他のお客さんたちもびっくりして、みんなの視線は私に集中した。まっすぐ父のところに行って「お父さん、帰ろう!お母さんが待ってる」そう言って袖を引っ張った。父は「わかったから、先に帰っていなさい」泣きながらその場を立ち去り、家にすごすご帰った。その後のことはあまり覚えていない。

その後、ある日、父から「今日は美味しいものをご馳走するから、このお店にいらっしゃい」と言われた。変だなぁと思いながら言われたとおり、近所の「不二家」に行くと、父が女の人と座っている。化粧品の匂いが強かったように記憶している。断れないままに席に座ると「なんでも好きなものを食べなさい」と父が言った。その女の人が取り繕うように「パフェがいいんじゃない」と、いちばん高いものを指さした。それを食べたかどうかもよく覚えていない。なにかすごく不潔なものを見た思いがして、傷ついたまま帰宅した覚えがある。

父と母はよく口喧嘩をしていた。私はよく知らなかったが、母が病院にいくほどのケガを負ったこともあるといういう。母はどんどんと父に心を閉ざしていき、父が近づいただけで、びくっとするほどになっていた。私の5つ年上の兄は、特にそんな父を許すことができず、母を守ろうとしていたのだと思う。父に反感をむき出しにし、よく食ってかかっていた。その感情はどんどんと膨らんで、なんどか兄は家出を繰り返していた。

家族団らんはもうどこにもなかった。もっとも怖いのが4人での食事の団欒だった。毎回兄と父とのけんかが始まり、茶碗は投げられ、箸は折られた。食事の時だけは、無事に食事できる時間がほしかった。

母は会社の上司に相談し、上司もそれにこたえて父を大阪に単身赴任させた。もちろんその女性とは逢わないという約束のうえで。父のいない何年かは平和な時間を過ごすことができた。しかし、父の単身赴任が解けた後も、父は女性と逢っていることがわかり、母は家庭裁判所に相談に行った。母も心細かったのだろう。私たちも連れていかれて、家庭裁判所の相談員との話を一緒に聴くことになった。私にはその雰囲気しか記憶がない。不安しかなかった。それも2度ほど、そんなことが続いた。

そんな中、兄は食事中の父との口論の末、「出ていく」と言って、家から着の身着のまま飛び出していった。私はあわてて自分の部屋からビーズの財布を取り出し、兄を追いかけた。「お兄ちゃん、これを使って」兄は私の後から父か母が追いかけてくることを期待してだろうか、私の後ろを見ながら、「ありがとう」と言って、財布を受け取った。中には小銭で3000円ほどしか入っていなかったが、それで兄はタクシーに乗り、途中まで訳も分からず、家からなるべく遠いところまで行ったそうだ。そこからはタクシーを降りて朝までさまよったと聞いた。

私は23歳で兄より早く結婚をした。それはそんな家庭環境から逃げ出したい一心もあったと思う。兄より早く結婚を決めた私に、母は今までの不満をぶつけるように、娘のための嫁入りの準備に念入りだった。

母は70歳くらいからアルツハイマーになった。父が近づくだけでびくっとしていた母だが、最期の数年は父の献身的な看病で、医者が驚くほど命を永らえた。亡くなる4年ほど前から私のこともわからなかったが、昔話をする母は幸せそうだった。父は母のために、料理をし、お弁当を作り、洗濯ものも奇麗にアイロンをかけ、下の世話をし、すべてを母に捧げた。病院でも訪問看護師さんたちにも、父の看病の様子は感動をもって、語られた。突然私が見舞いに行っても、父はいつでも母の手を握っていた。やっと父は罪滅ぼしができたのだろう。

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