エッセイ

神さまにはプランがある~続編 -22

22.高校はバリケードに囲まれてました。

入試に合格した高校の見学に行ったら、机や椅子をワイヤーでつないで、バリケードができていた。四角い字でいろいろな抗議のメッセージがたくさん貼ってあった。こんな高校だったんだなって思ったけど、それはそれなりで、何かワクワクもした。
入学式にはバリケードは取り払われていた。さっそくどこかのクラブ活動に参加しようと、友人とさがしていたとき、ちょっと兄の友人に似た気になる人がいた。その人を追いかけてみると「社会研究部」の部室に入っていった。新聞も読まないし、社会のことなんか考えてみたこともない私だったが、面白そうなので、部室に入っていった。男性ばかりのそのクラブは女の子の新入生が入ってきて、歓迎してくれた。実はそこは当時盛んだった「革マル」のアジトだった。

当時流行りだしたフォークソングは、そんな学生運動ともつながっていた。岡林信彦など、社会の体制に疑問を持つ人たちがフォークソングを通して、メッセージをなげかけている時期だった。兄の友人から習っていたギターで、やっと3つだけコードを覚えて、それで作曲などしていた。そこで、もうひとつのクラブ活動には、フォークソングクラブも選んだ。ここには「革マル」の敵対する「民生」の人たちも多く、わたしは両陣営から可愛がってもらう立場になっていた。

自分は「三ない主義」だって、悩んだりもした。つまり無気力、無関心、無責任…でも気力も関心もあった。無責任は確かにそうだったかもしれないけれど…

そしてその気力と関心は、山岳部に入部し、茶道部にも入部し、生徒会書記をやることになった。信頼できる友人もできて、小学校、中学校からずいぶんと積極的な女の子へと変貌していった。

フォークソングクラブには音楽をよく知っている先輩がいて、いろいろなことを教えてくれたし、自由に音楽を奏でることもできた。彼らや兄の友人などから教えてもらう情報で、このころからお小遣いを貯めて、多くのコンサートなどにも行った。もっとも印象深かった野外コンサートがある。「箱根アフロディーテ」だった。早い時間にはフォークソングでは「赤い鳥」などが出ていて、その透き通った声に魅了された。そしてすこしずつ黄昏になり、山に霧が降りてきたころ、舞台が自然のスモークに包まれ、青や赤の閃光のようなライティングがあたると、そこにはピンクフロイドが現れ、「原子心母」を演奏した。それは自然に溶け込むような音だった。あれはまるで奇跡のような瞬間だった。

音楽以外では山岳部というのが、私にとっては意外な選択だった。祖父は植物の研究で山登りは専門だった。父も同じく山登りは専門で、黒部ダムの開発工事では毎日命がけで通信路を確保した。私は趣味だけど、ひとつぐらいは運動部系を体験してみたいということで、山岳部に入ってみた。ところが、これは過酷だった。当時、リュックやテントは軽い素材のものはなかったから、木綿の重いもので、それだけでも重装備になった。男子は30㎏の石を詰めて、女子は10㎏の石をリュックに詰めて、マラソンをさせられた。裏の公園は小高い山のようになっていて、階段や坂も多く、かなりきついトレーニングだった。入部して半年ほどで、大山登山や、最終目的では北アルプス縦走を敢行した。登山はそれでも好きだった。ただ黙々と歩いて、テントを張り、自分たちで食事を作り、天気図を付けて、日が落ちてから、テントから出てみると、降り注ぐような満天の星空を仰ぎ見ることができた。あの星空は忘れられない。夏休みに行った上高地から北穂高までの10日間縦走は挑戦的なルートだったが、顧問の先生のおかげで、どうにか切り抜けることができた。特に涸沢カールでは夏でも雪が積もっていて、粉末オレンジジュースをその雪にかけて食べた時は本当においしかった。でも山頂では、めまいがしてしまって周りの人たちにずいぶんと迷惑をかけた。どうも私は高所恐怖症だったのかも…

茶道部は当時、禅や仏教など研究していたこともあり、このもっとも哲学的で無駄のない所作に憧れた。実家には代々伝わるお茶のための黒塗りの大きな茶道具の棚もあったので、道具にはあまり苦労しなかった。茶道をやるというと、母は喜んでくれて、簡単な所作など教えてくれたりもした。しかし茶道部はそれだけではなく、仲のよい友人で集まっては、元町巡りなどしてマップを作ったりした。茶道そっちのけで、お気楽なクラブだった。


なぜ生徒会の書記になったのか、あまり覚えていないのだが、当時はガリ版刷りでよく手を真っ黒にして、生徒に配る会報など、放課後に作業していたのを覚えている。当時、生徒からも制服を廃止しようという動きが出ていたため、そのためにずいぶん働いた覚えがある。結局、制服廃止は通ったが、実際には生徒たちは制服の方が楽だというので、努力は無駄になった。

ある年の文化祭で、ガリ版で詩集を作って来場者に無料でくばったことがある。「この青い空の下、ひとりで生まれてきたから、ひとりで死んでいく」というような内容だった。その時の気持ちはあまり変わることなく、今も続いているように思う。このころから、私は大学ノートに自分の考えを綴るようになっていた。高校2年生の時には、ジャズに目覚めたから、大学進学に興味はなかった。ひとりでジャズのために生活するというのが夢だった。今考えると、なんともよくわからない将来の展望だったが、何かその時の閉塞感を壊したかったのだろう。

半年かけて、大学ノートに自分の考えを綴り、自分の部屋の荷物を徐々に減らして、空っぽな状態にした。教科書や制服を質屋に持っていった。「帰ってくるんだよね」と質屋の店長は、私の顔を見ながら聞いた。2000円くらいくれたと記憶している。部屋の中のすべてが空になったとき、友人からの誘いでテントを張っての河原敷でのキャンプにでかけた。その先から公衆電話で家に電話をした。「家出をするから。もう戻らないから」電話口に出た母は何を言っているかわからない娘の言葉に慌てていた。それから、兄の女友達の家に電話をして、泊めさせてくれと言った。彼女は「とにかくいらっしゃい」と言って、その夜、同じ部屋に泊めてくれた。いろいろな話をしたけど、何を話していたかもよく覚えていない。ただ、テレビではデューク・エリントン生誕記念コンサートが流れていた。彼女のご家族が心配して、母に連絡をしたらしい。母から電話がかかってきた。「とにかく戻ってらっしゃい。おばあちゃんがすごく心配してるから」この”おばあちゃん”の一言が私には効いちゃったらしい。とにかく家に戻ることになった。父は激怒して初めて手を上げて、私を叱った。兄だけはよく理解してくれたが、実際何を理解していいのかもわからなかったようだ。

半年かけて計画した家出は3日で失敗と終わり、無事家に戻ることになった。高校でも大騒ぎになったらしく、親友から「先生から何か知らないかと聞かれた」と言われたが、私自身にもその確証となる理由は見当たらず、もちろん親友にも答えることはできなかった。つまり「理由なき反抗」だったのかもしれない。でも何かに行き詰っていることだけは確かだった。

そんな夏休みは終わり、制服廃止も失敗しながら、質屋から制服と教科書も取り戻し、日常の高校生活に戻った。友人たちは今までと変わりなく接してくれたし、ちょっとガス抜きした私も、落ち着いた残りの高校生活を過ごすことになった。

そして母に普通の生活にもどるにはひとつ願いがあると申し出た。ジャズ情報誌「スイングジャーナル」の巻末に大きく広告が出ている、このマーサ・三宅ボーカル教室に通わせてくれ、という願いだった。両親はそれを許し、その交換条件で大学に入学しなさいという。私はますますジャズにのめりこんでいった。

北アルプス

神さまにはプランがある~続編 -21前のページ

神さまにはプランがある~続編-23次のページ

PAGE TOP