エッセイ

神さまにはプランがある~後編-18

18. 奈良県に生まれまして

ここで時代をぐっと戻して生い立ちから書いてみようかと思う。ネタがつきちゃったといえば、そうなのだが、自分の振り返りにもなるかと思う。

さて、父方の先祖は、薬師寺と唐招提寺に隣接する奈良県奈良市柏木町に住み、地主をやっていたと聞く。農地改革もあり、多くの土地は没収されたようだ。村長として名ばかりは残っていたのだろうが、祖父はむしろ植物に興味があり、金銭に興味はなかったらしい。命がけで春日山原始林を観光地化から守った後、39歳で亡くなった。父はまだ9歳で、その歳で小作からお金を取り立てることさえ、やらされたらしい。小作からは石を投げられたと言っていた。祖父は九州に植物採集のため、息子を連れていき、ここからはひとりで帰れといって、電車代だけを握らせたという。スパルタ式だったようだ。そんな中でも、父はおおらかに伸び伸び育ったように思う。

父は、大学のころには自分のやりたいことが決まっていて、電気や無線に興味を持ち始めた。折しも戦争がはじまり、無線士として海軍士官となった。
父は戦争の話はほとんどしなかった。でも黒光りのするT定規を持っていて、これでよく部下を殴ったと自慢げに言っていた。そういう父は好きではなかった。海軍は綺麗好きでないといけないから、身の回りは自分できれいにしていた。朝は海軍らしく洋食だった。朝からご飯を食べる習慣がうちにはなかった。

戦争では飛行機乗りになり、終戦直前には神風特攻隊に入る予定だったという。終戦の前日、上官から話があり、「今から兵士たちに海外の映画を見せる。その間に君はとにかく逃げろ」と言われたらしい。命からがら逃げたが、逃げなかった士官たちは、兵隊たちに袋叩きにあったらしい。

さて、大学に入った父は優秀だったこともあり、当時マイクロウェイブ波を研究していた岡部研究所から声がかかり、研究員となった。その岡部研究所が松下幸之助の眼に止まり、父は松下電器の傘下に入ることとなる。つまり父は一度も就職活動をしたことがない。亡くなる前にも父は言っていた。「俺は好きなことしかやってこなかった」

その松下電器に、こまこまとよく働く小柄な女性がいた。彼女の大叔母さんはオペラ歌手。会社のコーラス部でふたりは出会い、結婚をすることになる。父の家柄は血が混じることを嫌ったらしく、親戚同士で結婚することが多かったらしい。だから恋愛結婚というのは珍しかったのだろう。しかし、旧態依然として片田舎に嫁に入るのは、どちらかというと都会育ちの母には、相当なストレスだっただろう。

1950年、男子が生まれた。その数年後2番目の男子が生まれたが、風邪をこじらせ、あっという間に亡くなってしまった。やっと会社から戻った父は、息子の亡きがらを見て取り乱し、母を責めた。「お前が殺したんだ」それ以来、夫婦の間には取り返しのつかないヒビが入った。

 

1955年、私が生まれた。病院ではなくお産婆さんに取り上げられたそうだ。母は気を失ってしまって、その間に生まれたと言っていた。女の子でよく甘えてくれるので、父は眼に入れても痛くないような可愛がり方。いつも丹前の胸元に娘を入れて、食事は膝の上でさせるくらいだった。小学校くらいまで私は父にいつもすがりついていたように思う。

3歳か4歳で東京に仕事で転勤することになった。だから、奈良での思い出はあまりない。でもひとつ覚えていることがある。

父には妹がいた。お見合いで結納も決まった時に、彼女は米国兵士と駆け落ちをし、アメリカに発ってしまった。長男である父は激怒したらしい。あちらで、女の子を3人産み、ガンで子どもたちがまだ幼いころに亡くなってしまった。私にとっての叔母が、おみやげをくれたことがある。それは見たこともないような色鮮やかな口紅だった。どういう風に使っていいかよくわからない私は、長い土塀にずーっと口紅で線を描いた。それを見つけた両親はひどく怒り、私を蔵に閉じ込めた。それはそれは怖い思いをし、それ以来暗い場所や暗い夜が異常に怖くなった。

祖父より以前には常に3人の女中がいたという。人は変わっても、名前は決まっていた松・竹・梅の3人だったという。そしてこの蔵で、首つり自殺したという話も聞いていた。それからというもの、私はいつもオバケの夢をみるようになった。トラウマの原型かもしれない。

東京に出てきた日をなぜか覚えている。渋谷だった。始めて中華料理屋というものに入り、ラーメンを食べた。外食などほとんどしたことがなかったので、都会とはこんな騒がしいところなのだと思った。

 

引っ越し先は自由ヶ丘の隣、九品仏という駅から少し歩いたところだった。父が言うには、私たちが住む前には俳優の三国連太郎さんが住んでいたという一軒家を、社宅としてあてがわれた。周り廊下は大きなガラス窓で囲まれていて、トイレは廊下の突き当り。玄関にはシュロの木があり、庭には灯篭もあった。同じ敷地に八百屋さんがあり、その八百屋さんが大家さんだった。大家さんのお家はトタン屋根で部屋も大きな2部屋ぐらいしかなく、子どもが3人ほどいた。お風呂は私たちの家にもらいに来ていた。ウチと大家さんの家の間には鶏小屋があり、毎朝、コケコッコーと聞こえた。ときどき、羽根だけがちらばっていることもあった。市川さんにはお世話になって、いつも遊びに行っていた。


幼稚園はフレンド幼稚園に入園した。毎朝”Good Morning to you”と歌う。いつも泣き虫の私は、お弁当を食べるのが遅くて、男たちにいじめられた。「おまえのかあちゃん、電車にひかれて死んじゃった」なんて言われると、私はとんでもなく不幸な気分になり、ますますお弁当が食べられなくなる。だってお母さんが死んじゃったら、私はこれからどうやって生きたらいいのだ。昔から冗談の通じない性格だったらしい。

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