エッセイ

わかれ道は突然やってくる-5

5. 麻酔してても「神さまがくれた時間」が聞こえてた。

6月15日、国立がんセンターでの初診だった。診察は9時30分からだが、8時30分に受付ということだった。初めての受付フロアーは広いのだが、人でいっぱいだった。初診シートには記入することがいくつかあったが、今までの経過を書く欄には次のように概要で書いた。
・5月6日、◯◯クリニックにて、定期的なMRI検査で転移性脳腫瘍と肺がんが見つかる。
・5月12日、紹介状にて◯◯大学病院、脳神経外科にて初診。呼吸器内科にて診察。
・5月20日、全身PET検査。転移は見られず。また腫瘍マーカーにも大きな異常は見られず。
・5月26日、放射線科にて脊髄からの穿刺にてCT下肺生検手術。
・6月9日、検査結果:原肺腺腫、遺伝子変異なし。左側頭葉に転移性脳腫瘍。

初診は呼吸器内科部長だった。私の経過を見て、「まずは脳腫瘍をガンマナイフで治療しましょう。その後化学療法で肺がんを治療しましょう。うちでもできるんですけど、手術の予定が詰まっていて待つと思うので、近所のクリニックで手術を早めにやったほうがいいですよね」「はい、そうしてください」

ここまで一番、気になっていたのが、脳腫瘍の症状が悪化することだった。左側頭葉の脳腫瘍の症状には、言語障害・記憶障害・認知障害・運動障害など、致命的な症状が起きる可能性がある。脳の手術というのは初めてだが、これは早くリスク回避しておきたかった。

翌日、早速紹介してもらった築地にあるクリニックで初診を受けた。理事長が担当だった。
「池田さん、ご家族は?」「ひとりです」「バツイチ?」「はい、バツイチ、子なしです」
いきなりリラックス。「職業は?」「ピアニストです」「おお!」
「ここに腫瘍がふたつありますよね。これをガンマナイフっていう手術で取ります。ただし、目に見えないくらいの小さいのが残る場合があるので、定期的に検査を受けて、またできたらまた取るってことになります」「はい、そうですよね。わかります。」「もう早めに今週中に入院してやっちゃいますか」「はい、ぜひそうしてください」

手術の手続き書にはあれ?「お好きなCDをお持ちください」って書いてある。唯一の自分のアルバム「神さまがくれた時間」を持参することにした。

6月19日、入院した。初めての個室。ちょっと高いけど、ここは個室しかないので、贅沢を楽しんだ。部屋は広々として、ソファーも置いてあり、シャワーも冷蔵庫も電子レンジもお茶セットも完備。ここは手術までの予定など全てが患者にわかりやすいように書いてくれているので、安心できた。時間から手順から、詳しく書いてある。
友人たちに入院の様子を知らせたり、いつものように英語の勉強をしたり、Netflixで映画を観たりで、それほど緊張もなくその夜は過ごした。

翌日は早くから点滴をし、ストレッチャーで手術室に運ばれた。まず手術前のシャンプー後、「これからヘッドセットをつけますが、麻酔が効きますからね。」次に目が覚めると、目の前に棒のようなものが見えて、ヘッドセットが装着されていた。「池田さん、今から手術しますが、手術時間は65分です。麻酔しますので、すぐ眠くなりますよ」次の瞬間、全身麻酔が効いて意識が遠のいた。ところが、いつの間にか私が持ってきていた自分のアルバムが聞こえている。ああ、もう何曲演奏したなぁ、これで1枚大体45分かなぁ・・・とか思っているうちに「手術終わりましたよ。」と先生の声が聞こえるので、「音楽、聞こえてました」って言うと、「やっぱり右脳だよ、右脳!」って喜ぶような先生の声が聞こえた。


4箇所、ヘッドセットを止める傷はあったが、大して痛みもせず、翌日は朝から退院した。アルバム「神さまがくれた時間」はそのクリニックの皆さんにプレゼントした。

音楽脳に関しては、母の思い出がある。母はアルツハイマーがかなり進んでいて、亡くなる4年ほど前から、娘のこともわからない状態だった。父の献身的な看病で長く生き長らえた。父が母にカセットプレーヤーで童謡を聞かせると、一緒に歌う。歌詞も覚えていれば、メロディも覚えている。それはほんとに鼻歌で、音程も歌詞もいい加減かもしれないけど、そんな状態でも音楽脳は働いている。私はこの光景を見て、音楽の力ってなんて素晴らしいのだろうと感激した。

このクリニックでは退院の日に、退院後の注意事項、生命保険会社に提出する診断書、半年先までの定期検診予定、退院証明書など全てが用意されていて、患者にしっかり寄り添った対応で、感心した。

 

 

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