エッセイ

高柳昌行氏の想い出

高柳昌行の名前だけで姿勢を正す人は、どれだけいるだろうか?多くのミュージシャンから、尊敬を集める孤高の存在でもある。渡辺貞夫に「最後に一緒に演奏したいのは高柳昌行だ」と言わしめた人物。
 
※別れたダンナのことをここでは「池田」と呼ぶことにする。
 
恵比寿にYAMAHAがあり、高柳さんはここで教えていたが、辞めて高柳塾を開くという。中途半端なものは入塾はできない。作文を書いて受かったものだけが高柳塾に入れる。半数ほどに減った生徒(塾生という)が四谷のご自宅に通うことになった。
 
レッスンはまさにストイック。習うのは基礎の基礎。まずはアポヤンド奏法でスケールを弾くだけ。テキストは2冊。それほど厚いものではないが、この2冊を完了したのは、渡辺香津美ともうひとりだけだと聞く。そして毎回作文を書いていく。
 
高柳さんの読書量はハンパでない。玄関から壁を覆いつくすようにずっと本がぎっしりと並んでいる。
 
ある日、池田に高柳さんから相談があり(というより、断れない状況だが)、「池田、車を買え。俺が半分出してやる。楽器車にするから、お前が管理しろ。好きに使っていいから」ということで、楽器車用のワゴン車を激安で買うことになった。
 
高柳さんは池田を気に入っていて、塾生たちもよく家に集まってきていた。塾生の中でももっとも信頼されていた生徒の結婚式では、終わってから、なぜか新郎と塾生たちが、ウチのこたつで雑魚寝しているような状態だった。何か事件があると池田が動いた。
 
私自身はそれほど直接会うことは少なかったが、病院に入院していたときに、高柳夫妻が見舞いに来てくれたのは嬉しかった。高柳塾の合宿にも参加させてもらった。「池田を頼みます」と言われたこともあった。そして、私にとっても高柳さんは、特別な存在の人になっていた。
 
レニー・トリスターノ、ラテンからボサノバ、そしてピアソラのタンゴが最後のターゲットになった。ギターだけ7人のピアソラ。池田はその当時、売っていなかった7弦ギターを工房で作った。
 
家が手ぜまになったので、池田にレコードを預けるということで、ウチには高柳さんのレコードが何10枚もあった。それらを聞いて、私もボサノバが好きになった。つまり、私も高柳さんの影響を受けていないとも言えない。
 
高柳さんが入院を繰り返しながらも、ドイツ政府からの招聘で海外の公演などの演奏活動を続けた。生きているのが不思議なくらいな病状でも、その勢いは衰えなかった。最後は「病室に入っていいのは、ナベサダと池田だけだ」と言っていたそうだ。
 
葬儀の頃、私たちは離婚していたが、連絡を受け葬儀のお手伝いもした。奥様の焦燥した姿が見るに堪えなかった。
 
今でもその名前を聞くだけで、姿勢を正す人は多いだろう。


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