エッセイ

小さいころのことってそんなに覚えてないんですが…

友人で、産まれた時に、子宮から産道をグルグル回りながら外に出たのを覚えているって人がいました。

私は6歳くらいまでほとんど記憶はありません。
おそらく後々見た写真や親や親戚からの話を繋ぎ合わせたか、あるいは夢で見たようなことを記憶として残っているくらいだと思います。

産まれは奈良県。唐招提寺と薬師寺のあたりで、今でも先祖代々のお墓は唐招提寺の裏にあります。父は薬師寺の管主であった高田好胤さんの後輩で、よく薬師寺で遊んだそうです。

お寺には宗派を問わず、ご縁があったようで、実家には大安寺から寄贈された畳2畳ほどの大きなテーブルがありました。祖母が大安寺あたりで「奈良の八重桜」を発見したことで寄贈されたのかもしれません。

さて、私の最初の記憶はと言えば、3歳頃のお稚児さんです。やたらと重い着物を着せられて紅い口紅か何かつけさせられて、不服そうに歩いている写真があったようです。

口紅で思い出すのは、叔母さんからもらったアメリカの口紅を由緒ある外壁にずずずーっと線をつけてみたのは、不思議と覚えています。奈良の土壁だから落とすのは大変だったんだろうなって思います。相当キツく叱られたのでしょう。だから覚えてるんだと思います。叔母は、お見合いが決まってもうすぐ結婚式というときに、米軍兵と駆け落ちをして米国に渡ったそうです。女の子が3人産まれたのですが、その後すぐに子宮がんか何かで亡くなっています。

その後の記憶と言えば、5歳くらいのころでしょうか。父の転勤のために、東京に出てくることになり、その電車の中で当時流行りのミルクのみ人形に何度もおしっこをさせて喜んでいたのを覚えています。周りの人たちが笑っていたのが嬉しくて、何度も水分過多にさせていたのです。
東京に出て渋谷に着いたときに、ハチ公前に中華屋さんがありました。そこで初めての外食、ラーメンを食べました。なんだかざわざわしていたのを覚えています。その後も母と私たちは、月1回のデパートの食堂以外では、ほとんど外食はすることがありませんでした。

社宅は九品仏にあり、元は俳優の三國連太郎さんが住んでいたそうです。大家さんは同じ敷地内の八百屋さんで、よく遊んでもらいました。私たちの家は周り廊下で、庭には灯篭もありました。でも大家さんのお宅はお店の奥に2部屋くらいしかなくて、お風呂は私たちの家にもらい湯に来ていました。大家さんの家とウチの間には、にわとり小屋がありました。朝にはコケコッコーって鳴きます。ときどきキキキキーってすごい声で鳴きます。そんな後にその前を通ると羽だけが残っていました。

私は甘えん坊できかん坊。お母さんのスカートの中かエプロンの中が一番好きでした。お母さんの怒る声が遠くなるし、エプロンは石鹸の匂いがしました。寒いと「寒いよう」って泣き、暑いと「暑いよう」って泣きました。大人になるまで、新年の誓いはいつも「今年は泣かないぞ!」でした。

フレンド幼稚園というしゃれた名前の幼稚園に行くようになりました。朝は”Good Morning to you”、お誕生日には”Happy Birthday to you”です。
食べることが好きではなかった私は(おお、今では信じられない!)、食べるのが遅くて先生によくせかされました。男の子たちがそれを見て「お前の母ちゃん、でべそ。電車に轢かれて死んじゃった」なんて言われちゃうと、「ええ!お母ちゃんはでべそだったんだ!それにもまして死んじゃったんだ!私はこれからどうすればよいのだ!」と絶望の中で泣きじゃくるしかないのでした。
そんな風にいつも私をいじめていた男の子が、卒園式にお人形を持ってきて、一緒に遊ぼうと言いました。そんなころから、男心はわからないという、誤った認識を持ってしまったのでした。

九品仏の家にて




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