エッセイ

父のこと~松下幸之助氏の想い出

父は奈良の田舎の地主の息子として生まれました。祖父は父を強く育てようとしたのか、子供のころに植物採集で訪れた九州から、ひとりで汽車で帰らされたそうです。
その後、まだ9歳で父親を亡くしたので、幼少のころから地代の取り上げなどに行かなければならず、時には辛い思いもしたようです。

成績は良かったようで、無線の勉強をするために米沢の大学に行っていたと聞いたことがあります。そのうちにマイクロウェイブの研究所に引き抜かれ、岡部研究所の一員となりました。その岡部研究所からそのまま松下幸之助氏に引き取られ、終生、松下電器のために働きました。父は晩年に「僕は好きなことしかやってこなかったから」とよく言っていました。そんな父からは興味深い話をたくさん聞きました。

松下幸之助氏の直属として、開発に関わっていたそうですが、テープレコーダーができたときに、松下氏に自分の声を録音してもらって聞かせたところ、「僕はこんな声じゃないな」って言われたそうです。初めて自分の声を聴くときは、みんなそんな風に思いますよね。
その後価格を決めるときに、原価、経費を計算して松下氏に見せたところ、「そうじゃなくて、お客さんが望んでいる価格にしなさい」って言われたとのことで、さすが松下幸之助の言葉だなって、感心しました。

タクシー無線の開発では警察と連携してシステムを作り、東京タワーではてっぺんに無線を取り付けるためにロープ一本で登り、黒部ダムでの無線の設置では命からがら毎日現場まで通い、信号システムの開発もし、そして携帯電話の開発にも関わったそうです。
特に携帯電話の開発では、大阪から大事な資料を東京に持って帰るとき、電車に乗り遅れそうになり、走っている電車につかまりそのまま電車に数十メートル引きずられたそうです。スーツはおかげでボロボロになって東京に到着して書類を渡したそうです。後日すぐに、松下氏からスーツの生地が送られてきたそうです。

松下氏との写真もあったのですが、今はみつかりません。父の若いころの写真と、みどりの1歳か2歳ごろの写真をお見せします。

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